令和元年6月12日 蝦夷の子孫、伊治呰麻呂これはりのあざまろは、郡司だった
2019.06.12
 蝦夷の子孫、伊治呰麻呂これはりのあざまろは、郡司だった
蝦夷の豪族、伊治呰麻呂これはりのあざまろの名前を山川は記述していますが、かれが郡司という役職にいたことは都合がわるいのでしょうか伏せて書きません。
 続日本紀には、呰麻呂が宏純に仕えていたことが書かれています。同じく殺された道嶋大楯(みちしまのおおだて)は呰麻呂が俘囚の家系だと見下していたことが書かれています。かれらが一緒に仕事をしていたわけですから呰麻呂は、いじめに我慢すればよかったのかもしれません。なぜならば、蝦夷の衆からすれば、努力すれば郡司になれるという希望の星だったはずです。
 ところがいじめられて、ぶちきれて本当に二人を斬ってしまったのですからただではすみません。ここでおとなしく罰を受ければ個人の間のいさかい事で決着したはずです。しかし呰麻呂は、おろかにも部下を率いて多賀城の物資を奪い放火してしまいます。これで彼の支配地域の蝦夷がみな賊軍になってしまいました。780年のことです。正に短気は損気です。
 反乱の中で、蝦夷の族長アテルイが頭角を現し、朝廷軍に損害を与えました(789年)。それに対して、朝廷から派遣された坂上田村麻呂は、城や柵の防備を強化しながら、諸国の農民9千人を移民させて、その税を免除したり低くして生活を安定させました。地域が安定しにぎわってくると、反乱の蝦夷が次々に帰順して、田村麻呂はこれを各国に移していったそうです。朝廷の命令で国司達は、生活に必要な品を与えて、扱いにくい彼らの面倒を見るわけです。
 その後、延歴20 (801)年2月、田村麻呂は4万の大軍を率いて、蝦夷の奥地に攻め入り、翌年には胆沢城を築いて、防備を固めました。最後まで抵抗したアテルイも、5百余人を率いて降参したということです。かれは都で処刑されます。ちなみに東京書籍は、このアルテイを印象操作か英雄扱いです。
 つまり坂上田村麻呂が陸奥の蝦夷をことごとく成敗したのではなく、その後も蝦夷はいわゆる良民と同化し、発展し、奥州藤原氏の栄華となったわけです。

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「草加市教育月報」は、市内中学校で使われている東京書籍の公民・歴史教科書や高校山川日本史を自由社の公民・歴史教科書の記述と比較して、簡潔・明瞭(シンプル)にその違いをあぶりだし、皆様にお知らせします。
 教育に嘘はいけません。印象操作もあってはなりません。もはや教育さえも、歴史戦、情報戦争では聖域ではないのです。文科省の「近隣諸国条項」はまだ生きています。
そのため東京書籍、山川日本史にはまだ、「南京大虐殺」(南京事件)が記述されています。
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2019.06.12 09:56 | 固定リンク | 未分類

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